諦観としての表象幸福論

 たとえば、好きな人がいて、その人に愛されているということが幸福であるとしよう。その愛は肉欲や世俗的な煩悩からかけ離れた高尚なもので、夢見がちな文学部生の趣向に合致しているものだ。これ以上の幸せはないし、それ以外の幸福はありえない。
 彼/彼女はきっと世間のカップルの「卑俗な」快楽を軽蔑するだろう。それは彼/彼女の趣味にはあわないのだ。形而上のプラトニック・ラブこそが最も価値あるものなのであって、それは誰にとっても自明なのだ。それがわからない人間は脳のどこかがいかれているのだ。

 そのような夢はいとも簡単に破り去られる。仮にそのような幻想を抱きつづけることができたとしても、それは頭の中の幻影にすぎないかもしれない。それは普通に生きていれば経験することだ。自分のことを愛していると信じていた人が、裏では他の人を愛している。プラトニックな幻想を抱いていた人が、実は人並みに肉欲を持っている。形而上の愛ほど空しいものはない。
 しかし、たとえば、目の前で好きな人が自分に微笑んでいる、ということはどうだろう。あるいは、自分のなかにわき上がる快楽それ自体はどうだろう。デカルト的な懐疑論―恐らくそれを本当に信じることは心理的に不可能である―によるのでなければ、その事実自体は疑いえない。
 形而上の幸福を信じることができるのは、ナイーブな中二病患者か、頭の悪いオプティミストだけだ。私たちは表象に幸せを見いださねばならない。表象に・・・・・・。

・酒が回ってきて自分でも何を書いているかわからなくなってきた。