レートー・タトさんへのコメント2

私はまふゆさんが仰っている文意を汲んでいますし、何が仰りたいかの文意を他のツイートも併せて汲むのはいいのですが、

→「私は、ほかのツイートとあわせて読めば、まふゆさんの文意を汲むことができます。」

最初のツイートはまふゆさんが「十分なケースを確保していないかもしれないが形式としては帰納的推論」として提示なさっている文としては断定的に過ぎる気がいたします、というだけのことです。

→「しかし、最初のツイートの書き方は、『十分なケースを確保していないかもしれないが形式としては機能的推論』だと言うには断定的すぎると思います。」

要するに経験談ですよね?

→「このツイートは、まふゆさんの経験談ですよね?」

既にそのように補足されていますが、でも最初のそれだけでは実際の所、経験談にしてはほぼ断定的な書き方ですよね?

→「すでに経験談であると補足されていますが、最初のツイートは経験談にしては断定的に書かれすぎており、不適切です。」

それが反発的な弾が飛んできている要因になっていると見受けられたので、

→「このような断定的な表現が、最初のツイートが反発されている原因であると思います。」

「理系であるなしか」「普通であるかないか」(これら両者の関係づけの根拠がよくわかりませんが)、というのを経験談から断定的にあまり限定して語るのは好ましくないカテゴライズなのではないかと危惧いたしました次第です。

→「さらに、『理系であること』が『普通であること』を意味する理由がわかりません。また、『理系であるかないか』や『普通であるかないか』は経験談から断定的に語るべきではありません。」(わかる範囲でまとめました)


そしてその後のたとえに関してですが、そこでどうこの好ましくないカテゴライズの仕方が出ているか、というのを見取ったかといいますと、あなたは「京都の人が御徒町を知らないと言っているのを聞いて、普通の(東京圏以外の)人にとって御徒町はあまり有名でないのだなと思った」と、こういっちゃっているわけですが、このたとえ方は失礼ながらあまり適切なたとえ方は失礼ながら、あまり適切なたとえ方だとは思えません。

→「あなたの『京都の人が御徒町を知らないと言っているのを聞いて、普通の(東京圏以外の)人にとって御徒町はあまり有名でないのだなと思った』というたとえは、適切ではないと思います。」

このやっぱり先の「理系であるかないか」と「普通であるかないか」の関係づけの根拠があまり断定調に語るのにはよく解らない筋道であるのと同じです。

→完全に何を言っているのかわからないのでまとられません。

御徒町を知らない東京圏の人は普通ではないのか、ということを暗に含んでいるように読めてしまいます。

→「御徒町を知らない東京圏の人は普通でない、ということを含意しているように読めます。」

「普通なら知っている」というのがあまりよくわからない断定です。

→「『普通なら御徒町を知っている』と、なぜ断定できるのかわかりません。」

こういう断定調が、先の方を晒した際に、同じ形で出てしまっているようにお見受けしたと申し上げたかったのです。

→「このような断定が、先の方を晒した際にもなされていると思います。」

・全体のまとめ
 私は、ほかのツイートとあわせて読めば、まふゆさんの文意を汲むことができます。しかし、最初のツイートの書き方は、『十分なケースを確保していないかもしれないが形式としては機能的推論』だと言うには断定的すぎると思います。このツイートは、すでに補足されているようにまふゆさんの経験談にすぎないのに、断定的に書かれすぎており、不適切です。このような断定的な表現が、最初のツイートが反発されている原因であると思います。また、『理系であること』が『普通であること』を意味する理由がわかりません。『理系であるかないか』や『普通であるかないか』は経験談から断定的に語るべきではないと考えます。
 加えて、あなたの『京都の人が御徒町を知らないと言っているのを聞いて、普通の(東京圏以外の)人にとって御徒町はあまり有名でないのだなと思った』というたとえは、適切ではないと思います。この表現は、御徒町を知らない東京圏の人は普通でない、ということを含意しているように読めます。しかし、『普通なら御徒町を知っている』と、なぜ断定できるのかわかりません。このような断定が、先の方を晒した際にもなされていると思います。
→私があなたの意見から読み取れたのはこれがすべてです。おそらく誤読をしているのでしょうから、指摘してください。

レートー・タトさんへのコメント

私はまふゆさんが仰っている文意を汲んでいますし、何が仰りたいかの文意を他のツイートも併せて汲むのはいいのですが、最初のツイートはまふゆさんが「十分なケースを確保していないかもしれないが形式としては帰納的推論」として提示なさっている文としては断定的に過ぎる気がいたします、というだけのことです。

→「○○なんだなと思った」という表現がそこまで断定的なものであるとは思いません。

要するに経験談ですよね?

→はい。「昨日の読書会で〜」という話が経験談以外のものであることを意図されているという発想が私には理解しかねるのですが。

既にそのように補足されていますが、でも最初のそれだけでは実際の所、経験談にしてはほぼ断定的な書き方ですよね?

→すでに述べたように、「○○なんだなと思った」という表現がそこまで断定的なものであるとは思いません。

それが反発的な弾が飛んできている要因になっていると見受けられたので、

→→もし「昨日〜ということがあって、○○なんだなと思った」という表現が経験談を超えた断定的主張を表すものであると解釈され、反発されているのだとしたら、それは私の表現ではなく読者の国語力に要因があると思います。

「理系であるなしか」「普通であるかないか」(これら両者の関係づけの根拠がよくわかりませんが)

→社会契約説への理解の有無、という文脈で、「普通である」とは、「社会契約説をはじめとした近代政治思想について高等教育を受けたり、自分で勉強したことがない」ことを意味します。したがって、(文系の教育を受けていない、読書会に参加していたその)理系の人は、普通の人であるということになります。

「理系であるなしか」「普通であるかないか」(中略)、というのを経験談から断定的にあまり限定して語るのは好ましくない

→私は理系であるかなしか、普通であるかないか、について語っていません。その二つを文脈上自明なものとしたうえで、「普通の日本人」の考えについて語っただけです。

〜語るのは好ましくないカテゴライズなのではないかと危惧いたしました次第です。

→ここは何を言っているのかわかりません。「語るのはカテゴライズ」ってどういうことですか?


そしてその後のたとえに関してですが、そこでどうこの好ましくないカテゴライズの仕方が出ているか、というのを見取ったかといいますと、あなたは「京都の人が御徒町を知らないと言っているのを聞いて、普通の(東京圏以外の)人にとって御徒町はあまり有名でないのだなと思った」と、こういっちゃっているわけですが、このたとえ方は失礼ながらあまり適切なたとえ方は失礼ながら、あまり適切なたとえ方だとは思えません。

→ここは(何を言っているのかは)わかります。

このやっぱり先の「理系であるかないか」と「普通であるかないか」の関係づけの根拠があまり断定調に語るのにはよく解らない筋道であるのと同じです。

→訂正いただいたとおりに直してみましたが、何を言っているのかわかりません。推測もできません。ごめんなさい。

御徒町を知らない東京圏の人は普通ではないのか、ということを暗に含んでいるように読めてしまいます。

→そんな風には読めないと思います。このたとえのなかで、私は「普通の人」という言葉を「東京圏以外の人」という意味で使いました。このことは東京圏の人とそれ以外の人を対比する文脈から自明だと思いますし、ツイート内でも明示しました。この文脈では、東京圏の人は御徒町を知っていようがいまいが、「普通の人」(東京圏以外の人)ではありません。

「普通なら知っている」というのがあまりよくわからない断定です。

→私は、「普通の人」(東京圏以外の人)なら知らない可能性が高い(普通の人にとっては有名でない)ということを述べたはずです。また、このたとえの中で私は、「有名でないのだなと思った」は、有名でない(知らない人が多い)という表現を使い、さらに「○○なんだなと思った」という婉曲表現を使っており、まったく何も断定をしていないと思います。

こういう断定調が、先の方を晒した際に、同じ形で出てしまっているようにお見受けしたと申し上げたかったのです。

→繰り返しますが、私は何も断定していません。そして、このたとえは「先の方を晒した」ときに一番はじめにしたツイートだと思うのですが、「同じ形で出てしまっている」のはどのツイートでですか?

目線について

子どもに話しかけるとき、わたしたちは目線をあわせる。
時間が過ぎることと目線が変わることは、いつしか無関係になってしまった。あとほんの数年で、この少年と膝をついて話すことはなくなるのだ。ときが経つごとに景色が変わっていくことは、彼にとって当たり前である。世界が驚きで満ちていることに、子どもは驚かない。
背が伸びないことを嘆くのにあきて、わたしたちはどうにか目線を変えようと工夫する。膝をついたり、背伸びをしたりして。世界が退屈で満ちていることに、わたしたちは意外と退屈しない。膝をついたり背伸びをしたりしても、世界がたいして変わって見えないことは、なんとなく知っているのに。

『功利主義』第2章訳

 授業用。なんというか全部訳しておけってのはつらいのでないか。これを訳すだけでもだいぶ時間がかかったし。

 功利を正と不正の基準として擁護する人たちは功利を快楽と対比させる制限された単なる日常的な意味で〔功利という〕用語を使っているのだ、と考える無知な誤りに対しては、わずかな言及だけで十分である。功利主義に対する哲学的な反対者たちと、そんなばかげた誤解をする人たちとを混合しているように一瞬であれ見せてしまったことについて、彼らに謝らなければならない。この誤解は、すべてを快楽に、しかももっともひどい形態の快楽に帰してしまうという〔功利主義に対する〕それとは反対の告発が、功利主義へのよくある攻撃のもうひとつになっているということを考えると、よりへんてこである。そして、ある有能な著述家によってするどく指摘されてきたように、これと同じ種類の人たち、多くは同一人物が、〔功利主義の〕理論を、「『功利』という言葉が『快楽』という言葉に先んじるときには実行不可能なほど無味乾燥なものとして、『快楽』という言葉が『功利』という言葉に優先するときには実行可能だが享楽的であるものとして」非難する。この問題について何かを知っている人ならば、エピクロスからベンサムに至る功利の理論を主張したすべての著述家が、功利という言葉によって快楽と比較して区別された何かを意味していたのではなく、苦痛の回避とともに快楽それ自体を意味していたこと、そして、役立つものを感じのいいものやかざりたてているものと対比させるかわりに、役立つものが他の多くのもののなかでもそれらのことを意味しているということをいつも明言してきたということをわかっている。しかし、一般大衆は、新聞や雑誌における大衆的な著述家だけでなく、重くて自惚れた本における大衆的な著述家も含めて、たえずこの浅はかな誤謬に陥っている。「功利主義的」という言葉をつかまえたとたん、その響き以外に何もそれについて知らないのにも関わらず、彼らは決まって、美や装飾や娯楽というそのいくつかの形態における快楽の拒否や無視をそれによって表現するのである。悪評においてだけでなく、時には賛辞においても、まるでそれが軽い快楽や単なる瞬間的な快楽に対する優越を含意しているかのように、言葉がこのように適応されまちがっている。そして、この誤った〔功利主義的という言葉の〕用法は、それによって言葉が世俗的に知られているたったひとつの用法であり、新しい世代がそこからその意味についての全ての認識を得る用法であるのだ。その言葉に一度触れたものの、何年も本来の呼称としてそれを使っていなかった人たちが、ふたたび使いはじめることによってそれを完全な堕落から救うために何かできると望みうるのならば、ふたたびそれを使いはじめる義務があると感じる可能性は十分ある。

 段落ながすぎ。もし誤訳をみつけた暇な人がいたら教えてください。

私はいかにして人生に絶望したか(1)

 今私に残っているもっとも古い記憶は、子どものころ住んでいた家で母とどこの幼稚園に入るべきか話していたときのものである。私は少し遠くにある幼稚園に入りたいと―送迎バスにアンパンマンの塗装がなされているからというだけの理由で―考えていたが、結局は母の思惑通り家の近くにある幼稚園に入ることとなった。幼稚園時代の記憶はほとんどないので、どちらの幼稚園に入っていても私の人生にたいした影響はなかっただろう。
 小学校に入ると、「好きな女の子」というものができた。小説や漫画の影響を受けてなんとなく言ってみていただけで、小学校低学年の子どもに恋愛感情が理解できていたわけがない、とずっと考えていたが、それは大人の思い込みにすぎないのかもしれない。とにかく、その当時の私は、少なくとも主観的には、大真面目にその女の子のことが好きだった。
 しかし、その子を好きになるのとほぼ同時に、彼女の好意が自分には向けられていないというこの上なくありふれた事実を私は理解することとなった。そのことは、世の中は愛される人間と愛されない人間に分かたれていて、自分は後者に属しているというやはりこの上なくありふれた事実を意味していた。あの子が好きだった少年は私よりも圧倒的に恰好がよく、運動も勉強もできて、明るく快活で、みんなから好かれていた。私もみんなと同じように彼のことが大好きだった。
 一方の私は、薄汚く、愚鈍で、どうしようもなく陰鬱であった。私がみんなと同じように私のことを嫌いにならずに済んだのは、私が鈍感であったからというよりは、彼が私に劣等感を抱かせないくらいまでにいいやつだったからだ。まあとにかく、彼はほんとうに恰好がよかった。今どうしているかまったく知らないけれど、きっとクズ哲学科生にだけはなっていないだろう。

卒論

 こないだ中間発表があった。テーマは去年の夏いろいろやってた生の技芸まわり、という方向。テーマはpolicy、とかもしくはmoralityとpolicy、くらいの絞り方をしようかと思ってたのだけど、もう少し広めに「J.S.ミルにおける生の技芸」くらいでいいのでないか、ということに。
 しかし新学期に入ってからこれまでのツケで授業だらけなので、ぜんぜん時間取れてない。いしはたは果たして第二回中間発表をサヴァイブできるのだろうか……。

3/15-17

3/15

 昼間はずっと電王戦を観ていた。習甦強すぎ。もし本当に▲6八角が敗着だったのだとしたら、もう二度と人間は勝てないのでないか。
 夜、バイト先のミーティングがあった。すごく憂鬱。

3/16

 昼間はずっと棋王戦を観ていた。渡辺ストレートで防衛。羽生さんや森内さんには苦戦しているけど、やっぱり強いなぁ。三強とそれ以外の実力差を感じる。

3/17
 土日を将棋だけ観てすごしてしまったので、反省してミスドで勉強。しかし、たいして進まずに帰ってきてしまう。なんか喫茶店とかだと長居するのが悪い気がして出ちゃうんだよな。明日から大学に行くことにしようかしら。
 帰りに将棋世界を買ってしまう。結局将棋じゃないか!