ポリシー

・「個人がそれによって彼らの行動を決めなければならない規則を探すことが個人の任務となるケースがあるのに対して、実践的なことのすべての部門において、個人が彼らの実践を既に打ち立てられた規則に従わせるよう拘束されているケースがある。後者は、たとえば、決められた成文法典のもとで働く判事の場合である。判事は、手元の特定のケースにおいてどんななりゆきが本来的に賢明なものであるかを決定するよう求められているわけではなく、ただそれにどんな法律の規則が当てはまるか、つまり、何を立法者がその種のケースにおいてなされるべきだと定めており、したがって個々のケースにおいても意図していたと推定されるかを決定するよう求められているだけである。ここでの手法は全体的にまったく推論もしくは三段論法(syllogism)のひとつであるはずだし、その過程は明白に、三段論法についての私たちの分析のなかで私たちがすべての推論がそうであるとしたもの、つまり教義(formula)の解釈であるはずだ。
 反対のケースについての描写は、後者と同じ種類の主題から引き出されるだろうから、判事の立場に対照させて立法者の役割を考えることにしよう。判事が手引きとして法律を持っているように、立法者も規則や、深慮の格率(maxims of policy)を持っている。しかし、判事が法律に縛られているのと同じやり方で立法者が格率に縛られていると考えること、そして彼のしなければならないことすべてがそれらの規範から個別のケースへと降りてくるように論じられると考えることは明らかな誤りである。立法者には格率の根拠や基礎を考慮に入れる義務がある。対して、立法者の意見が不確かなままであって、彼らへの考慮が立法者の直観を啓発するのでないかぎり、判事は法の根拠や基礎について何もすべきことがない。判事にとって、法律は、一度はっきりと確かめられさえしてしまえば、最終的なものである。しかし、根拠よりも規則によってことを進める立法者、もしくは、ナポレオンに征服された古くさいドイツの戦術家や、両親が法則(rule)に逆らって生き返るくらいなら従って死ぬべきだと望む医者のような他の専門家(practitioner)は、ただの空論家であり、教義の奴隷である。(J.S.Mill, A System of Logic, University of Toronto Press, 1974, pp.943-944)

・前にも増して雑な訳だけど、それは置いておいて。

・ここで深慮(policy)という言葉が使われているのは何か意味があるのだろうか。

前に訳した「道徳性(Morality)・分別(Prudence)または深慮(Policy)・美学(Aesthetics)」(Ibid. p.949)の5ページくらい前。ここで「分別」だけじゃなくてわざわざ深慮(Policy)が挙げられてるのはここで一度使ってるからなのかな。

・直後にも「深慮(policy)の格率の根拠、もしくは技芸の他のどんな規則の根拠も、対応する科学の定理以外ではありえない」(Ibid. p.944)なんてのが出てきたりする。うーん。

・わからん。