気付いたこと

・読書会のまとめをブログにあげることにするとめんどくさくなってつづかない

・レポートを書こうと思ってCWを何冊か借りてきた。やはりミルの英語は古いし癖があって読みにくい。なんかコンマが多すぎる気がする。

・あと気付いたのは俺は英語を何もアウトプットせずに読むのが苦手だということ。ここらへんはゼミとか読書会でばかり英文を読んだつけなのだろうな。書き込みとか翻訳とかしないとむずがゆくてしかたないし、わかった気がしない。

・しかし、参考文献集めて卒論とか書かねばならぬことを考えると、もうちょい高速で英文を読む能力とかがなくてはいけないのだと思うし、それだけじゃなぁ。

・せっかく訳したので置いておこう。ちょっとしか訳してないけど。

・「これまでの章において、私たちは、自然(nature)のふるまいについての研究という用語の最適な意味において科学(science)であるところの道徳(Moral)と呼ばれる知識部門に含まれているもの*1の現在の状態を性格づけようと努力してきた。しかしながら、道徳的知識という言葉のもとに、それどころか(不適当であるとはいえ)道徳科学という言葉のもとにさえ、その結果が直説法によってあらわれる研究だけではなく、命令法やそれに相当する迂言法によってその結果があらわされるような研究が含まれることは慣習になっている。つまり、義務についての知識と呼ばれるものであり、実践倫理や道徳性(morality)と呼ばれるものである。」(J.S.Mill, A System of Logic, University of Toronto Press, 1974, p.943)

・「このような一般的な前提は、それから演繹されるかもしれないおもだった結論と一緒に、教義の集まりを形作る(かもしれない)。この教義のあつまりは、適切に、道徳性(Morality)・分別(Prudence)または深慮(Policy)・美学(Aesthetics)、つまり、人間の行為や作業における正しさ(the Right)・適切さ(the expedient)・美しさもしくは高貴さ(the Beautiful or Nobel)という3つの部門における生の技芸(Art of Life)である〔と呼ぶことができる〕。この技芸は残念ながらまだこれから作られねばならないものであるが、他のすべての技芸はこの技芸よりも二次的なものである。なぜなら、生の技芸の原理は、どんな特定の技芸に特有な目的についても、それが価値ある望ましいものかいなかを決めるはずだからだ。すべての技芸*2は、したがって、科学によって明らかにされる自然法則と、目的論(Teleology)あるいは目的の教義(the Doctrine of Ends)と呼ばれてきたものの一般原理との共通の成果(joint result)なのである。目的論あるいは目的の教義は、ドイツの形而上学*3の言葉を借りれば、不適切ではなく、実践理性の原理とも呼ばれうるだろう。」(Ibid, pp.949-950)

・誤訳を見つけた暇な人がいたら教えてください。

*1:さっそく誤訳。先行詞はMoralじゃなくてthoseみたいです。ご指摘いただいた@makoto_s415さん、ありがとうございます。https://twitter.com/makoto_s415/status/371563307045384192

*2:ここでの「すべての技芸」は「すべてのその他の技芸」だと考えていいのだろうか。この章のタイトル「実践の論理、もしくは技芸について」(Of the Logic of Practice, or Art:Including Morality and Policy)だし、目的論とか実践理性と(狭義での)技芸は同じものじゃないとおかしくなる気がする。

*3:あの人だよねぇ。