新手一生

・「リッチー・リッチ」。子ども向け映画だけど、まあそこそこ笑えて面白い。俺もあのくらいの金持ちになってみたいわ。

・読書会の連絡メールに返信締め切りをつけるとみんな締め切りギリギリまで返信してこない*1ということがわかった。まあ、いいのだけどね。

・東急将棋まつりに行ってきた。生で紅ちゃんが観れたので歓喜。遠くてよく見えなかったけど、羽生さんとかみうみうとかてんてーとかやうたんとかもちょっと観れた。

・あと、後ろのほうでおじさんたちの対局を観ていたとき、後ろで声があがったので振り向いてみたら、松尾歩七段が歩いていた。なんかすごいな。いつもテレビとかニコ生とかでしか観てない人が近くに立ってると、なんか現実じゃないような、レンズを通して観ているような気がしてしまう。「やっぱり俺とこの人のあいだには何らかの媒体があるのでは?」みたいな。

・でも大盤が観にくかったから個人的にはおじさんたちの対局観てるほうが楽しかった。なんか強そうな人がいっぱいいた。あたりまえか。

・機嫌がよかったので扇子を買ってしまった。「新手一生」。こんどから勉強会とかで使おうかな。「哲学思想史研究の新手を指すぞ!*2」ってことで。

・そのあとありきぃさんとカラオケ。久しぶりだったのであまり声がでなかった。毎回ありきぃさんにたかってしまってごめんなさい。

*1:今日みんなメールしてくるんだよね?信じてるよ。

*2:亀本洋先生が『格差原理』(成文堂、2012)で「〔ロールズの〕「反省的均衡」という倫理学の方法論に注目する研究者も多いが、私がそこから学んだところは皆無である。「熟慮した判断」ということが強調されるが、「考えた挙句まちがう」という経験を彼らはしたことがないのだろうか。〔将棋における〕「三手の読み」というのは、それをちょっとでも考えるのと、まったく考えないのでは、雲泥の差があるということを教える格言である。熟慮するにつれて、その限界効用は急速に逓減する。」(p.酈)と書いていたけれど、これは倫理学研究(特に理論研究)の特質を捉えそこねていると思う。確かに、将棋を指しているときには、長く持ち時間を消費して考慮してもさほど有意義でなかったり、裏目に出てしまうこともあるだろう。しかし、将棋には持ち時間があるけれども、倫理学研究には持ち時間がないか、あるとしても将棋を指す場合よりはずっと長い。確かに、私たちは実生活上で道徳問題について短い時間で判断しなければならないことはあるだろうし、そこでは熟慮よりも「三手の読み」のほうが能率的であることもあるかもしれない。しかし、少なくとも倫理学の理論研究は、そのような性質のものではない。むしろ、道徳理論は将棋の定跡によく似ているように思う。私たちが将棋を指して勝つためには、定跡形を離れてからも戦いを有利に進め、敵玉を討ち取るための中終盤力が必須である。しかし、定跡それ自体は、長大な熟慮と試行錯誤のすえに生まれるものだ。将棋における価値ある新手は、熟慮のすえ用意されたものであることが通例だろう。同じように、倫理学の少なくとも理論研究においては、熟慮が重視されることは間違っていないように思われる。