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 朝起きると√2さんからメールが来ている。葛西臨海公園の件は暫定的に来週の火曜日になったらしい。sukoyakaも来るそうだ。
 午前中はミラーの『国際正義とは何か』をちょっと読む。『社会正義の原理』の「社会正義」という語が、どうして単に「正義」じゃないのかが気になっていたのだけど、ヒントになりそうな記述が。 

 正義そのものはきわめて古くからの観念であるが、グローバルな正義というのは比較的新しい観念である。その両者の中間に社会正義という観念が見出されるが、これは当初一九世紀後半に現れ、二〇世紀になって顕著になった観念である。社会正義は分配的正義の別名として見なされることもあるが、実際にはそれよりもいくぶん特殊な性質を有している。分配的正義という問題が生じるのは、上は家族を筆頭にあらゆる規模の集団内でそれぞれ妥当な取り分を要求する多くの要求者の間で割り振られるべき何らかの分割可能な財が存在する場合である。それに対して、社会正義は大社会の成員の間での権利、機会、資源の分配に関係しており、この観念が現れたのは、そのような分配を社会制度の作用(私有財産と契約の法律、労働組織、租税制度、公的サービスの提供など)として考え、したがって政治活動によって改変可能であると考えることができるようになってからのことである。言い換えれば、社会正義という観念は一方で社会科学の発展を前提にし、他方で産業、教育、健康管理の規制のための諸策をもたらすことのできる政治制度を前提にしている。このような条件が整ってはじめて、現在行なわれている権利、機会、資源の分配がすべての市民を公正に扱っているかどうかということが意味ある実際的問題となるのである。(18-19pp)

 社会正義は同じ政治共同体の市民である人々の間で執り行われる正義である。彼らにとって正義とは、少なくとも部分的には、自分たちが自由で平等な市民として活動しつづけることができるような条件を確立する問題である。たとえばそれは、市民としての地位を定義する表現の自由や選挙権といった一連の権利、あるいは人々が政治的場面で市民として効果的に活動することができるような物的資源(最低限の収入といった)への権利を含んでいる(21-22pp)

 要するに、「社会正義」というのは配分的正義の一種で、ネーションの社会制度に関心を持つらしい。だからナショナリティ研究と社会正義研究がつながるのか。なるほど。


 昼ごはんは2日連続でざるそば。午後から図書館の自習室に行って『社会正義の諸原理』を読む。この調子で読むペースを上げていきたい。
 しかし、あの図書館に行くと腹が減ってしかたがないのはなぜだろう。結構家から距離があるので、あそこまで行くのに体力を使うのかもしれない。あるいは、自習室特有の静けさに圧迫感を感じるのだろうか。

 夕食の時に母親と進路の話などをする。両親は俺を就職させる気まんまんのようだ。憂鬱。
 この前たかのさんと会った時にも話したのだけど、俺が恋愛以外でアイデンティティを求めうるのは恐らく学問だけなんだよね。病院さんに振られちゃった以上、俺は生きる意味を倫理学にしか見いだせない。それすら頼れないなら、どうしろというのだろう。

 夜。茶実さんとメール。交流は19日を軸に。明日えみゅうさんが帰ってくるそうだから、連絡をとって最終決定しよう。しかし、教室とか大丈夫かな。最悪部室でもいいけど。
 はぁ。もう8月も8日か。何もしていないと時が経つのが早い。

国際正義とは何か―グローバル化とネーションとしての責任

国際正義とは何か―グローバル化とネーションとしての責任

Principles of Social Justice

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