7/10

 午前中はひたすら前の記事を書く。文字にすると考えが整理できていいね。錯覚かもしらんが。
 最近いよいよ夏めいてきたけど、毎日飲み物を買うお金はないので、今日から水筒を携帯することにした。これだけでもだいぶQOLが上がるような気がする。最大善に貢献したぜ。

 昨日と同じく昼から部室へ。またシモティくんがいる。病院さんいわく、彼は病院さんが俺のことを好きなのだと思っているそうだ。「付き合っちゃえば?」だってさ。そうだったらよかったのにね。
 昼休みが終わると、部室から人がいなくなる。寂しいのでコンポをいじってみると、SurvivalDanceが流れる。いつの部員が置いていったものなのだろうか。
 しばらくすると、√2さんが帰ってくる。タバコを(火をつけずに)くわえている。難解。何が楽しいのだろう。

 4限は病院さんと受ける。このブログの感想を聞いてみたら、「すみません」と何度も言われた。死者に鞭打つように何度も振らなくったっていいじゃないか。一度言えば……わからないのが俺なのだろうけど、でも。
 5限。ぞべさんと受ける。先々週も声をかけてくれた。きっと一人になった俺を気遣ってるんだろうな。本当にいい先輩だ。
 そのあと、昨日長々書いた問題について調べるために法経図書センターで明石欽司『ウェストファリア条約』を借りてくる。ロックの時代っていわゆる「ウェストファリア体制」でいいんだよなぁ。

 帰宅して『ウェストファリア条約』を読む。関係がありそうな記述がいくつか。

 また、パリーのように条約集の起点を一六四八年に置くことに関連して、ウェストファリア条約を実定法としての国際法、或いは実証主義国際法学の発展の重要な契機として位置付けるという見解が頻繁に見受けられるが、これもまた「神話」の一つの顕現として理解されるのである。(6p)

 「条約集」とは、パリー(C.Parry)が編集した条約集(Consolidated Treaty Series)のこと。1648年に定められた諸条約(ウェストファリア条約も含まれるのだと思われる)を1巻冒頭に収録している。また、「神話」とは、国際法史研究上無批判に前提されているウェストファリア条約に対する見方のこと。
 これに対しては(一部孫引きになってあれだけど)以下の様な注がついている。

 例えば、ショウの概説書においては、国際法における実証主義が「一六四八年のウェストファリア条約後の近代国民国家系(the modern nation-state system)が登場したのに伴って」発展した、或いは「[同条約以後の]実証主義と欧州の勢力均衡の決定的確立により」正戦観念が消滅したとされている。ここでは、「神話」を前提として、更にそれが実証主義国際法学や正戦論の消滅と関連付けられている。(22-23p)

 「ショウの概説書」とは「M.N.Shaw,International Law,5th ed.(Cambridge,2003)」のこと。ここでの「実証主義」とは、戦争などの正・不正の判断基準としての道徳理論を持たない相対主義的な法実証主義のことだと考えていいだろう。筆者はショウには批判的な立場のようにも読めるが、ウェストファリア条約が戦争に対して手続き的な正義のみを要求したものであるという解釈は通説であるようである。
 しかし、名高き自然法論者であるロックが、そのような法実証主義的な考えに賛成するだろうか。実際に、(また孫引きになって申し訳ないが)ウェストファリア条約が前提とする法思想をロックの法思想と対比する主張もあるようだ。

 ファゲルソンは、「ウェストファリア条約における主権の淵源を彼ら[自由主義者]の多くが寛容と結び付ける」ことに疑問を呈し、次のように述べている。「[ウェストファリア]条約の署名者の中で他者を抑圧しようという熱望や他者に対する邪悪を放棄した者は殆どいない。講和は、暫定協定(modus vivendi)を仕上げようと躍起になった交戦当事者の消耗の結果であったのであって、何らかのロック的啓示(Lockean epiphany)によるものではないように思われる。」(27p)

 引用は「D.Fagelson,"The Concepts of Sovereignty:From Westphalia to the Law of Peoples?",International Politics,38(2001),499-514.」からのもの。ちなみにこの論者と筆者はわりと立場として近しいようだ。筆者と近しい立場から見ても、異なる立場から見ても、ウェストファリア条約はロック的なものではないみたい。


ウェストファリア条約―その実像と神話

ウェストファリア条約―その実像と神話