8/19
午前中。NHK杯の渡辺☓深浦戦を観る。2回戦にしてすごいカードだ。事前の解説通り横歩取り。マジで急戦になるんだね。
昼ごはんのそばを食べて図書館へ。しかし休館。恐らく、交流会の日だから関係ないと思って忘れてたんだな。帰りに駅前の本屋によって帰宅。
そのあとちょっとだけ真面目に勉強。先週の勉強会で、ミラーの「Social Justiceの実行範囲はnation-stateであるべきだ」みたいな主張にロックの人が「(それより上位の単位だと価値観が共有できなくて困るのはわかったが)なぜそれより下位の集団を単位としてはいけないのか。より小さくしたほうが連帯の度合いが強まってよいのでないか」みたいなことを言っていたのだけど、これってどうなのだろう。
前の日記では簡単に「「社会正義」というのは配分的正義の一種で、ネーションの社会制度に関心を持つ」とまとめてしまったのだけど、そのときも引用したように、ミラーは『国際正義とは何か』で「この[社会正義という]観念が現れたのは、そのような分配を社会制度の作用(私有財産と契約の法律、労働組織、租税制度、公的サービスの提供など)として考え、したがって政治活動によって改変可能であると考えることができるようになってからのことである」(19p)って言ってるんだよね。つまり、社会正義という概念が制度としての国家(state、でいいのかな)と結びつくものであることはミラーにとって前提化されている。
ところが、ここでミラーが言っている「(国民)国家」ってのは単にstateじゃなくてnation-stateであるという点に留意すべきで、要するにミラーがここで主張しているのは「社会正義の実行母体であるstateはnationと一致すべきだ」「一民族一国家」「民族自決」*1ということなんだと思うんですね。たとえば、1つのnationに2つのstateがある韓国・北朝鮮とか、1つのstateにたくさんのnationがある中華人民共和国とかは、恐らくミラーにとって社会正義の実行母体としてはふさわしくない。ロックの人の言う「nationより小さい母体で社会正義を〜」は、恐らくミラーにとっては「nationより小さいstateを作りましょう」という主張と同一視されるんじゃないかと思う。まあ、朝鮮半島になりたいかっていうと、なりたくないよなぁ。
夜。真琴さんから変なスカチャがくる。なぜあの人は変な画像ばかり送りつけてくるのだろう。いいのだけど、反応に困る。
深夜。すみこさんからメール。大道寺さんとオクトーバーフェストに行くらしく、誘ってくれた。しかし、俺はビールが飲めないので断る。すまぬ。
- 作者: デイヴィッド・ミラー,富沢克,伊藤恭彦,長谷川一年,施光恒,竹島博之
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